本の整理をしました

今日、地震で本棚から落ちたままになっていた自室の本たちを手にとりました。手にとまる本がみな、今回の震災に関係があるような気がして、読み始めてしまうとなかなか作業がはかどりませんでした。

都築響一『TOKYO STYLE』のあとがきにはこのような画が載せられていました。

納涼図 久隅守景筆・東京国立博物館


〜坐して半畳、寝て一畳
「夕顔棚納涼図」と題された一枚の屏風を見に、僕は東京の国立博物館を訪れたことがある。作者の久隅守景は、江戸時代前期に生きたというだけでその生没年も分からなければ真筆とされる作品も少ないマイナーな画家だが、この図は僕にとって、なんというか人生かくありたいという理想の光景なのだ。仕事でも遊びでもいままでずいぶんたくさんのインテリアを見てきたが、究極の居住空間はと問われるたびに、僕はこの図のことを思い出す。(中略)「坐して半畳、寝て一畳」という言葉が仏教にある。結局のところ人間はどんな広大な邸宅を作っても、眠るのに2m×1m以上の場所は必要ないのだ〜都築響一『TOKYO STYLE』(ちくま文庫 2003)430-432頁より引用

鴨長明方丈記川瀬一馬校注・現代語訳(講談社文庫 1971)には、大地震(おほなゐ)という題の節がありましたのでここに引用します。

地震
また、これも同じころだったと思うが、ひどく大きな地震がゆれたことがあった。そのありさまは、ただごとではない。山はくずれて河をうずめ、海はひっくり返って、陸地をひたしてしまった。土が裂けて水が湧き出し、岩山が割れて谷にころがりこむ。海岸近くを漕いでいた船は、つなみに沖へ持ってゆかれ、道行く馬は、踏みどころが定まらず、足をあがいた。都近くでは、ここかしこの神社仏閣、ひとつとして無事に立っているものはなく、どれもこれも、くずれたり、倒れたりした。ちりほこりが立ちのぼって、そのはげしさは、さながら煙りのごとく、大地がゆれ動き、家がくずれる音はまるで雷鳴のようであった。家のなかにいると、たちまちおしつぶされそうになるので、外に走りでれば、地面がひどく割れさける。羽がないから、空に舞いあがるわけにもゆかず、龍ならば雲に乗ってでも飛べようが、人間にはそれもできない。つくづく、恐ろしいもののなかでも恐ろしいのは、地震だと痛感したことだ。
そんなにひどくゆれることは、暫時でやんだけれども、そのあとの余震がしばらくは絶えず、ふだんならびっくりするくらいの地震が、二・三十度ゆれない日はなかった。十日、二十日過ぎると、だんだん間遠になって、あるいは日に四・五度、二・三度、もしくは一日おき、二・三日に一度などと、大体その余震が三月ばかりはあったでしょう。
四大種(宇宙の四元素)の中で、水・火・風の三つは、いつも害をするが、大地にいたっては、格別の異変を起こさない。昔、文徳天皇の斉衡のころとか、大地震があって、東大寺の大仏のお首が落ちなどして、ひどいことがあったけれど、それでも、このたびほどのことはなかったそうだ。
この地震の当座は、人々はみな、この世の詮ないことなどを言い合って、多少は、人心の濁悪もうすらぐかと思われたが、月日が重なり、年月がたってしまった後には、地震の恐ろしさなど、口に出してうわさをする人さえもなくなった。(61-62頁より引用)


鈴木明『子どもとあそぶ家づくり』も、house publishingの活動の参考にすべき本でした。