『すばらしき復活』


・田中一良著『すばらしき復活』すばる書房(昭和52年)を読みました。副題は「らい全快者 奇跡の社会復帰」とあります。
・"らい"とは
感染症の一種。"らい"は癩とも書き、レプラ、ハンセン病、ハンゼン病とも呼ばれる(その他にも蔑称として様々な呼び方がされてきた)。症状は様々あり、その感染力は極めて低く、接触による感染は殆どしないが、皮膚に発症するとただれたり膿がたまったりすることから、歴史的にも古くから差別の対象となってきた。特効薬として、本著中では戦後米軍が持ち込んだ「プロミン」がある。
・本著は鈴木重雄の伝記として読むこともできるが、著者田中一良による"らい"の良質なルポルタージュとしても読むことができる。
・それはどういうことか?
鈴木重雄の人生が、"らい"によっていかに翻弄され、いかに復活を遂げたか、その様を知るだけでも意義のあることであるが、本著では鈴木重雄が第三者(田中良一)の視点から緻密に描かれることで、反って鮮明にこの時代における"らい"の実態が浮き彫りにされているのである。それは、それだけ著者が鈴木と濃密な時間を共にしたということで、鈴木本人が第三人称で書いた自叙伝を読んでいるような錯覚さえ覚える(ちなみに、鈴木重雄の"未完"の自叙伝に『失われた歳月』皓星社(2005)がある)。

・以下に本著をもとにした鈴木重雄の年表を記す。
明治45年 宮城県本吉郡唐桑村鮪立越路に生まれる
昭和9年 東京商科大学(現一橋大学)学部生1年生(当時23歳)の時に"らい"発症
昭和10年、医師から"らい"の宣告を受け、自殺を決意する。しかし、親族から"らい"が出たとなると、身内に迷惑がかかると判断した鈴木は、親しい友人に「思想上のことで、亡命することにした」という内容の手紙だけ出して、自殺行へと旅立つ
大量の睡眠薬を購入し、湯河原の旅館に入るが、体力があり余り自殺に失敗
三原山での投身自殺を思いつくも、茶屋の老人に自殺行を見透かされ、またしても自殺に失敗
帰りの船で海に飛び込もうとするも、鈴木より先にだれかが飛び込み、ここでも死にきれずに帰路につく
大阪、鎌倉、横須賀、館山、千葉、房総白浜と流浪生活をした後、日光華厳の滝に向うが、このときは滝が凍結して立 ち入ることができなかった
翌日、白根山の山奥に入るも、炭焼きの翁に追い返される
宮城の秋保の山奥に入るも、足をすべらせ谷底に落ち、いざ死を目の前にしてみると、決心が鈍る
北海道登別の地獄谷に投身を思いつくが、一人の青年に先を越される
旅館に戻り、今度は劇薬で自殺しようとするも、巡査がやってきて、詰問される
北海道を転々とし、明治乳業の研究室から青酸カリを盗み出し、これを常に持ち、南洋諸島へと旅立つも、そこでも死 に切れず、日本に戻る

昭和11年12月、雑誌『改造』で「らい園」の存在を知り、瀬戸内海の長島にある国立療養所長島愛生園に向う。ここには何百、多い時には千人単位の患者が"収容"される。一度入ってしまうと、所持金も持ち物も全て剥ぎ取られ、自由もな く、外部との交際も断ち切られ、園内で結婚する際も、男性は"優性手術(避妊手術)"が施される、といった「この世の地獄」ともいえる場所であった。以降、鈴木は身分を偽り、「田中重雄」を名乗り、園内での生活を始める。

昭和12年 園内の自治会の仕事を始める
昭和14年・15年 自治会長に選出される
昭和16年 職員から「田中追放」の動きが起こり、園を追放される
同年 自治会長に就任しないことを条件に帰園を果たす
昭和18年 分館長から園内の溜池工事の指揮を依頼され、これを果たした後、「自治会長に就任しない」との旨の誓約書が返還され自治会長に就任
昭和20年 園内にいた柴山佳子と結婚
昭和20年8月15日 敗戦
同年 "らい"の進行により末端の感覚を失い、大火傷により指を失う
昭和21年 戦後の貧窮により多くの患者が命を落とす
同年 特効薬「プロミン」がアメリカから持ち込まれる(しかし、当時日本ではたとえ全快した患者でも園は退園に消極的であり、プロミン使用開始から10年待つように言われる)
昭和23年 高松宮が来園
昭和25年 下村海南博士が来園
昭和26年 アメリカの文通友達から、らい患者の手によりつくられた雑誌『スター』が送られ、アメリカでのらい患者の社会復帰の実情を知り、希望を抱くが、病状の悪化により片目の視力を失い、絶望感からかみそりで自殺未遂をする
昭和27年 総裁 高松宮、会長 下村海南とする財団法人藤楓協会(らい予防協会)が設立される
昭和32年 プロミン使用開始から約束の10年が経ち、社会復帰に向け、脱毛した眉の植毛手術をする

これ以降、鈴木はらい患者の社会復帰運動のために、園に残り続けながらも、同時に各地で講演会をはじめとして様々な活動を始める。旧友や親族(両親はすでに亡くなっていた)との再会も果たし、持ち前の能力とこれまでの経験を活かし、地元唐桑での中央と直結した鈴木ならではの役目を果たした。
なかでも、大阪教育大学近藤教授を代表とする国際的ボランティア団体FIWCとともに「交流の家」を建設したり、国民宿舎「からくわ荘」建設と水道敷設を同時に実現したり、衛生施設や福祉施設建設のための資金集めや誘致を行うなど、現在の唐桑の基礎を成す、重要な役目を果たした。その他にも、町長選に出馬、顧問役として企業に就職するなどの目覚しい成果を残す。